はじめに
第1回:暴走したAIは止められるのか?(1)~ニュースを起点に知財を考える~
第2回:暴走したAIは止められるのか?(2) ~技術の現在地と日本の対応~
これまでの2回では、2026年に相次いだ出来事(OpenAI社のテスト用AIモデルによる侵入事件、米下院の「AI Kill Switch Act」提出、カリフォルニア州の行政命令)を紹介しながら、「AIキルスイッチ」という言葉が指す内容と、技術としての現在地、そして日本の対応を整理しました。
今回と次回は、特許の視点から見てみたいと思います。
今回の論点は3つです。
・AIキルスイッチに関連する特許はすでに存在するのか。
・他社の特許技術を無断で使ってしまったらどうなるのか。
・「公共の利益のため」を理由に、特許を使える余地はあるのか。
標準化に関する点は、次回に回します。
AIキルスイッチに関連する特許は存在するか
「Kill Switch」という名称を持つ特許は存在します。たとえばGoogle Patentsで確認できる米国特許(US10121609B2、発明の名称「Kill switch」、2016年出願・2018年登録)は、トラクターと農業機械をつなぐ回転駆動軸の緊急停止装置に関するものです。AIとは無関係な、昔ながらの機械式キルスイッチの特許です。
AI関連では、Meta社がAI搭載スマートグラスなどの拡張現実(AR)機器向けに、カメラやマイクといったセンサーへの電源を、ソフトウェアからは解除できない形でハードウェア的に遮断する仕組みについて、米国で特許出願をしています(US2026/0244794A1、2026年2月出願、同年8月20日公開)。この出願は「暴走したときに止める」というより、「盗撮などを防ぐために録画機能を物理的に切る」というプライバシー保護の趣旨に近いものです。
今回調べた範囲では、AIモデルやAIエージェントの挙動そのものを外部から止める仕組み(前回紹介したKILLBENCHで評価されているような、外部から停止を働きかける手法)について、特許として権利化されている例は見当たりませんでした。
学術論文としては出てきていますが、少なくとも公開されている特許情報からは確認できませんでした。もっとも、これはあくまで簡易的なスクリーニング結果で網羅的な調査ではありません。
「止める工夫」は特許になるのか
では、その工夫は、そもそも特許の対象になるのでしょうか。
日本の特許法が守るのは「自然法則を利用した技術的思想の創作」です。人と人との取り決めや、言葉の言い回しの工夫そのものは、特許の対象になりません。
前回紹介したKILLBENCHが評価しているような、「こういう指示文を与えれば止まる」というプロンプトの工夫は、指示文の内容だけを取り出すと、「人為的な取り決め」に近く、特許にはなりにくい領域です。
一方、ソフトウェアに関わる発明は、「ソフトウェアによる情報処理が、ハードウェア資源を用いて具体的に実現されている」といえれば、特許の対象になります。
たとえば、AIエージェントの動きを監視するシステムが異常を検知して停止信号を送り、エージェントが使うアクセス権を自動的に失効させる仕組み。こうした形まで落とし込めば、「止める工夫」も特許として保護されうる対象となってきます。Meta社の出願のように、電源を物理的に切るハードウェアの仕組みは、その典型です。
つまり、自社の工夫が「言葉の工夫」で終わっているのか、「仕組み」として形になっているのかが分かれ目になります。
ただし、いざ、ご自身が発明した技術を特許出願しようとする際は、ソフトウエア関連を実務として行っている弁理士などの専門家に相談することが多いはずです。ですので、この点は、あまり深く考えなくても大丈夫だと思います。
他社の特許を無断で使うとどうなるか
AIキルスイッチの実装に他社の特許発明が使われていた場合、これは通常の特許権侵害と同じ扱いになります。
つまり、実施許諾(ライセンス)を受けずに使えば、差止請求や損害賠償請求の対象になり得ます。「AIの安全のため」「社会的に必要だから」という目的の正しさは、特許法上、無断で使うことを正当化する理由には基本的になりません。
「公共の利益のため」なら許されるのか
手がかりになるのが、日本の特許法93条の「公共の利益のための通常実施権の裁定」、いわゆる公益裁定という制度です。特許発明の実施が公共の利益のため特に必要であるにもかかわらず、特許権者との実施許諾の協議が整わない、あるいは協議自体ができない場合、経済産業大臣の裁定によって強制的に通常実施権(ライセンス)を設定できる仕組みです。
特許庁の逐条解説が挙げる典型例は、「発電原価が著しく下がる発明」「ガス漏れ・ガス中毒が著しく減る発明」といった、国民生活に直接関わる分野です。理屈のうえでは、AIの暴走を止める技術が「公共の利益のため特に必要」と認められれば、この制度の対象になる余地はあります。
ただし実際の運用を見ると、この制度はかなり例外的な位置づけです。調べた範囲では、日本でこの公益裁定が経済産業大臣によって実際に認められた事例は、これまでに一度もありません。2021年、理化学研究所などが持つiPS細胞由来の網膜色素上皮細胞に関する特許をめぐって、日本で初めてこの条文に基づく裁定請求が行われましたが、2024年5月、当事者間の和解によって取り下げられ、裁定という形での決着には至りませんでした。その後、新たな請求があったという情報も見当たりません。
もうひとつの入口:裁判所が「差止」を認めない場合
公益裁定は、事前に大臣がライセンスを設定する仕組みでした。実際に公益に近い事情が考慮されるのは、むしろ裁判の場面ではないかと思います。
特許権者は、侵害者に対して「やめろ」と求めること(差止請求)ができます。ただし、権利の行使が「権利の濫用」に当たると判断されれば、裁判所は差止を認めません。
その実例が、2014年に知財高裁の大合議(裁判官5名による特に重要な事件の審理)で出された判断です。スマートフォンの通信規格に必須の特許をめぐり、特許権者は「公正・妥当・無差別な条件でライセンスする」という宣言(FRAND宣言)を標準化団体にしていました。裁判所は、規格の普及によって社会全体が得られる便益にも触れながら、その条件でライセンスを受ける意思のある相手に対する差止請求は権利の濫用に当たるとして認めませんでした。その一方で、ライセンス料相当額を限度とする損害賠償は認めています。「止めるな、ただし対価は払え」という落としどころです。
「公共の利益」そのものを理由に差止を否定した日本の判例は、調べた範囲では見当たりません。もしも、AIの安全機構が業界標準になり、FRAND宣言とセットで運用されるようになれば、同じ考え方が当てはまる可能性があるかもしれません。読者の側から見ると、他社の特許が関わっていても「差止で事業がすぐ止まる」とは限らない一方で、対価の支払いを免れるわけでもない、ということになります。
義務化されたら特許はどうなる?
もし将来、法律でAI企業に「自社モデルへのキルスイッチ搭載」が義務づけられたとしても、多くの場合、各企業は自社の技術としてそれぞれのやり方で実装することになるはずです。その意味では、他社特許の強制利用が正面から問題になる場面は、それほど多くないかもしれません。
むしろ注意しておきたいのは、「止められること」自体がルールや規格で求められるようになる流れです。たとえばEUのAI規則では、高リスクのAIシステムに「停止ボタンまたはそれに類する手順」を備えることが義務づけられ、それを具体化する欧州規格の原案も審議が始まっています。
もっとも、こうしたルールが求めているのは「止められること」という結果であり、止め方の技術まで指定しているわけではありません。もし今後、止め方の方式まで業界で共通化され、そこに特定企業の特許が組み込まれれば、他社は実装するためにライセンスを受けることが前提になります(いわゆる標準必須特許の構図です)。標準化の話は第4回で、あらためて整理する予定です。
まとめ
今回は、AIキルスイッチを特許の視点から整理しました。
・「Kill Switch」の名前を持つ特許は昔からありますが、AIの挙動そのものを外部から止める仕組みが権利化された例は、調べた範囲では見当たりません。
・一方、社内の「止める工夫」も、言葉の工夫で終わらせず仕組みに落とし込めば、特許の対象として検討できます。
・他社の特許が関わる場合、「安全のため」という目的だけでは無断使用は正当化されず、公益裁定も実際に発動された前例のない制度です。
・特許権者がFRAND宣言をしているなどの一定の条件の下では差止請求が認められない場合があるとしても、実施者が対価の支払いまで免れるわけではありません。
では、肝心の標準化はどこまで進んでいて、企業はどう動いているのでしょうか。次回(第4回)は、標準化と特許をめぐる「いま」の動きと、それを踏まえた実践のポイントを見ていきます。
今回も最後までご覧いただきありがとうございました。
参考文献
- Google Patents「US10121609B2 Kill switch」 https://patents.google.com/patent/US10121609
- Google Patents「US20260244794A1 Secure Hardware-Enforced Sensor Privacy Systems And Methods for Performing Thereon」(Meta Platforms Technologies LLC、2026年2月6日出願、2026年8月20日公開) https://patents.google.com/patent/US20260244794A1/en
- arXiv「Can We Stop Malicious AI? KILLBENCH: A Benchmark for External AI Kill Switch Feasibility」 https://arxiv.org/abs/2511.13725
- 特許庁「特許・実用新案審査基準 第III部第1章 発明該当性及び産業上の利用可能性」 https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/guideline/patent/tukujitu_kijun/document/index/03_0100.pdf
- 特許庁「特許・実用新案審査ハンドブック 附属書B 第1章 コンピュータソフトウエア関連発明」 https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/guideline/patent/handbook_shinsa/document/index/app_b1.pdf
- 知的財産高等裁判所「大合議事件」一覧(平成25年(ラ)第10007号・第10008号 決定、平成25年(ネ)第10043号 判決、いずれも平成26年5月16日) https://www.courts.go.jp/ip/hanrei/g_panel/index.html
- 決定の要旨(差止請求権の行使が権利濫用に当たるとされた事例) https://www.courts.go.jp/ip/vc-files/ip/file/H25ra10007.pdf
- 判決の要旨(FRAND条件でのライセンス料相当額の範囲内の損害賠償請求は権利濫用に当たらないとされた事例) https://www.courts.go.jp/ip/vc-files/ip/file/H25ne10043.pdf
- EU Artificial Intelligence Act「Article 14: Human Oversight」 https://artificialintelligenceact.eu/article/14/
- IEEE Standards Association「IEEE 7009-2024 Standard for Fail-Safe Design of Autonomous and Semi-Autonomous Systems」 https://standards.ieee.org/ieee/7009/7096/
- 特許庁「我が国における裁定制度について」 https://www.jpo.go.jp/resources/shingikai/sangyo-kouzou/shousai/senryaku_wg/document/07-shiryou/paper08.pdf
- 日本法令外国語訳データベースシステム「特許法」(第93条) https://www.japaneselawtranslation.go.jp/ja/laws/view/42
- 弁護士・弁理士 大西達夫のブログ「iPS細胞関連特許への公共の利益のための強制実施権設定を求めた裁定手続において和解が成立」 https://attorneyandpatentattorney-onishi.blog.jp/archives/55165787.html
- 株式会社VC Cell Therapy「裁定請求第1号(2021-1)「網膜色素上皮細胞の製造方法」の特許使用に関する裁定請求の和解成立のご報告」 https://www.vcct.jp/news/20240530/
※本記事は公開されている報道・行政情報・特許情報をもとに作成したものであり、個別の法的判断を示すものではありません。また、特許調査は簡易的なスクリーニングに基づくものであり、網羅性を保証するものではありません。AI関連の規制・技術動向は変化が速い分野のため、最新の状況は各一次情報でご確認ください。
